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◆つれづれの鉄記◆



〜鉄道創業と国有化(明治から昭和へ鉄道路線網変遷)〜

ご存知のように、日本での鉄道創業は明治5年10月14日(旧暦:同年9月12日)、新橋・横浜間に始まります。
これは正式開業で、同年5月には品川・横浜間が仮開業しています。                  
建設の開始は明治3年といいますから、戊辰戦争後まもなくということになります。驚くべき速さです。  
ところで、「日本国有鉄道百年写真史」にはおもしろいエピソードが載っています。当時、鉄道反対論と賛成 
論とがあり、明治2年11月の鉄道建設廟議決定後に激しい反対論が政府内部に起こった、というものです。 
主役はというと、ご存知、伊藤博文・大隈重信。それに外務省・民部省・大蔵省・・・こちらが建設賛成派
です。反対派は、弾正台(司法機関)・兵部省(軍隊ですね)・薩摩藩系の維新元勲・・・となります。   
反対派の理由とは、お察しの方も多いでしょう。要するに鉄道より軍艦を優先すべし、ということです。 
当時の時代背景からすれば、アジアは欧米列強の植民地化のターゲットでありました。また帝国主義的国家行動
が時代の潮流でもあったのです。つい140年ほど前の出来事ですが、随分大昔の事にも思えますね。    
日本政府は鉄道建設を選びました。といっても軍艦もすぐ視野の内に入れてのことですが・・・。    
鉄道の軌道には、広軌・標準軌・狭軌などと幾種類ものレール幅の線路がありますが、日本は狭軌を選択しま 
した。レール幅が1,067ミリという国際的に見ても極めて狭い軌道幅です。そこを走る車両も小さくなります。ま
た、トンネル掘削も鉄橋の大きさも国際的基準である標準軌(1,435ミリ:新幹線の軌道です)より安上がりです。 
浮いた資金を軍艦建造に回すということで、反対派を納得させる妙手であったかもしれません。(この辺の 
話は私のかってな憶測ですので、信用してはいけません)                                             

しかし、出来立ての明治政府には資金がありません。紆余曲折のあった公債の発行などである程度の目算を
を付けていますが、この時期、旧武士を中心とした反政府活動の鎮圧に集中せざるをえません。鉄道建設ど
ころではありませんね。とはいうものの新橋・横浜間が明治5年、京都・神戸間が明治7年に開業しています
。そして、東京と西京(京都)間のルート調査・測量等が行われています。この頃は中山道を中心に考えていた 
ようで、測量もそちらが中心でした。                               
下図は明治15年の鉄道路線網です。鉄道の初開業から既に10年が経過した頃の状況です。                

明治15年鉄道路線網

(1961年日本国有鉄道広報部発行:「国鉄365日」より)


10年を経ても鉄道敷設はこのようなものでした。これらは略官設です。総延長300キロ以下ですね。幹線は国
有と決めていたのですが、その計画は遅々として進んでいません。まだまだ鉄道に対する理解が不足して 
おり、軍部だけでなく、一般の人々の反対も多かったのです。土地の収用や漁業権問題、旧来の運送業・ 
・旧街道の宿場の生業の今後・攘夷思想の残存・・・などなど問題山積です。             
明治10年、西南戦争が終わり、鉄道が兵員や軍需物資などの輸送に大きな効果を発揮することが明らかに 
なりました。この事は通常の商品流通の迅速化や拡大化に大きな期待を一般にも抱かせたのです。       
政府には相変わらず資金がありませんが、日本の土地土地には所謂豪商や篤志家がかなり居り、その人達 
と旧公家・諸侯・士族が結びつき、そこで私設鉄道の登場となります。この発想は明治初期からあったの 
ですが、政府の基礎が固まりつつあった明治10年代に活動が活発となりました。その第一号が日本鉄道会 
社です。東京・高崎間、東京・青森間の建設が一挙に進みました。また鉱山開発のための私設鉄道も九州 
や北海道で路線距離を伸ばしました。(私設鉄道とはいえ、政府から多くの援助や保証を得た会社ですので
半官半民というところでしょうか)                                                                
さらに最も重要な路線である東京・京都間のルートが決まり、東海道本線が全通しています。(これは官設)。

ところで、鉄道建設の話は幕末の頃からあったようです。幕府瓦解直前に、フランスやアメリカが当時の江戸幕府 
に鉄道敷設の認可を申請しています。またそれよりも前に、薩摩藩の密航留学生たちがベルギーから建設提 
案を受けています。しかしながら、倒幕派(薩長)を影で支えていたイギリスがこれらの話をぶち壊したようで
、結局計画の具体化は明治新政府の元で行われました。従って、新橋・横浜間開業の前にかなり長い助走 
期間があったということです。                                  

次の10年間でここまで路線が拡大しています(下図)。                         
明治25年鉄道路線網

(1961年日本国有鉄道広報部発行:「国鉄365日」より)


さて、長い間停滞していた鉄道の敷設が一気に進行しましたが、残念ながらここで戦争の話をしなければ
なりません。                                                                                  
明治25年の路線網を上掲しましたが、その2年後の明治27年に朝鮮半島をめぐる問題から日清戦争が勃発 
しています。戦争には長期の構想と計画が必要です。 当時の東アジア情勢や戦争経緯は他に讓りますが 
当時の軍部では、西南戦争での鉄道機能の有用性を認識するとともに、普仏戦争でのドイツの軍事輸送を学
ぶなどして、明治10年代既に仮想敵国であった清国との戦争を想定し、鉄道敷設の緊急性を鉄道局に建議
しています。その中に興味深い提案があります。軌道幅の変更と幹線の複線化です。         
有事の際、1,067ミリの狭軌道や単線では軍需物資・兵員輸送に充分ではないということです。目的が戦争 
遂行であるため当然の要求でしょう。しかし鉄道局(井上勝長官)は資金面や経済性を理由として、その件
は不可能であると回答しています。多少誤解を覚悟で言えば、軌道幅の変更がこの時実現していたら、今
の新幹線は別の形になっていたかもしれません。陸軍の提案であることに大きな抵抗感はありますが、軌
道幅を広げる上で千載一遇のチャンスであったと悔やまれます。                    
日清戦争は日本が勝ちました(というより、満州族王朝のために漢民族その他の士卒が本気で戦ったのか 
が勝敗の行方を決めたのでしょうけれども・・・)。その結果多額の賠償金が転がり込んできました。  
その大部分は軍備拡張費に、特に海軍のために使用されたようですが、鉄道や製鉄所へも多少回されまし
た。明らかに軍事目的ですね。次の日露戦争へ向けての布石です。                 
下図は更に10年後の路線状況です。官設鉄道も2,000kmを超え、私設鉄道も各地域に続々設立され開業し 
て行きました。(山陽鉄道も全通です)                                                            
明治35年鉄道路線網

(1961年日本国有鉄道広報部発行:「国鉄365日」より)


明治35年には、かなり鉄道網が整備されてきました。殖産興業と富国強兵という政府方針の後押しにより
、青森から馬関(下関)まで一気に繋がっています。そして、この2年後日露戦争が起こります。     
この時期、官設より私設鉄道の方が路線距離が長いようです。政府の国有鉄道方針の転換により、私設鉄
道による「鉄道熱」という現象が起こりました。明治18年以降25年頃まで、その会社設立計画数は50社以
上にのぼったそうですが、やはり甘い見通しでの計画倒れも多く、営業開始に漕ぎ着けたのは14社にすぎ
ません。また、鉄道事業を投機的に利用した者たちも多くいたようです。人間の行動は今も変わりません
ね、残念ながら・・・。                                    
そして明治23年、日本初の経済恐慌が起こりました。鉄道投機熱も一気に冷め、このあたりから鉄道国有
化論が再び高まっていきます。明治25年には鉄道敷設法が交付され、政府による鉄道政策が明確になりま
した。私設鉄道は地方交通に限定されたのです。予定幹線網は国有と決定されました。これには経済界か
らの強い反発があったのは言うまでもありません。なにせ商売の種を奪われたのですから。      
当時の鉄道は、軌道幅は同じであっても、私設線は独自に、全体の中での脈絡もなく敷設されました。 
例えば、北海道はアメリカ系・九州はドイツ系・本州はイギリス系・・等々と運用形態も技術も異なります。日露 
戦争ではこれが大きなネックとなったようです。戦後の明治39年には「鉄道国有法」が交付され、主要な17 
の鉄道会社が買収され、帝国鉄道庁ができ、翌41年に鉄道院が設置されました。私設鉄道の買収・引継ぎ
は1年間で完了しています。官設鉄道の営業キロ数は7,153kmに飛躍しました。(ちなみに買収路線は4,543km
に達します) 。こうして所謂「国鉄」の元祖が誕生しました。ちょうどこの時期、朝鮮半島の併合が強行
されたのは、内閣直属の鉄道院創設と無関係とは思われません。                  
下図は国有化後数年を経た大正元年の鉄道路線網です。                      
大正元年鉄道路線網

(1961年日本国有鉄道広報部発行:「国鉄365日」より)


尚、この明治時代の鉄道管轄部門名称は以下の通りであります。
  1、民部省、大蔵省(鉄道掛)明治3年3月27日       
  2、民部省(鉄道掛)    明治3年8月 9日      
  3、工部省(鉄道掛)    明治3年潤10月20日     
  4、工部省(鉄道寮)    明治4年8月15日      
  5、工部省(鉄道局)    明治10年1月19日      
  6、内 閣(鉄道局)    明治18年12月28日     
  7、内務省(鉄道庁)    明治23年9月6日      
  8、逓信省(鉄道庁)    明治25年7月21日      
  9、逓信省(鉄道局)    明治26年11月10日     
 10、逓信省(鉄道作業局)  明治30年12月28日     
 11、逓信省(帝国鉄道庁)  明治40年4月1日      
 12、内 閣(鉄道院)    明治41年12月5日      
                             
以上12部局に渡ります。草創期の試行錯誤がよく判ります。  
その後は以下の4つしかありません。(JRは除きます)      
                                                          
  @ 鉄道省         大正4年9月3日       
   A 運輸通信省       昭和18年11月1日      
  B 運輸省         昭和20年5月18日      
  C 日本国有鉄道      昭和24年6月1日      

以下の図は、鉄道省中期の頃大正末の鉄道路線網です。    
大正15年鉄道路線網

(1961年日本国有鉄道広報部発行:「国鉄365日」より)


大正時代は大衆文化出現の時期と言われています。大正デモクラシーという言葉が象徴的です。(とはいえ、
この言葉は戦後できたものだそうですが)                                                       
当時の言葉でいえば、民本主義・天皇機関説などとなりましょうか。日本もようやく重工業化に転換し
つつある時期です。鉄道を中心とする交通網の発達は日本各地から労働力を都市部へと送り込みます。
また、この時期マスコミが大きな力を持ちました。藩閥官僚政治から政党政治への転換、普通選挙法の施行
などが基盤となり、所謂中間層が出現するのです。                       
一方、海外では清朝が崩壊し中華民国ができ、第一次世界大戦が起こり、また国内では米騒動や労働運
動が激化し、と明暗がくっきりと別れます。残念ながら鉄道がその一翼を担っていたことは確かです。
このような時代背景の中で、国産機関車が誕生します。明治までは欧米を中心とした外国製でした。  
大正時代の主な国産機(SL)は次の通りです。(釈迦に説法ですが・・・)             
                                                                                            
   大正2年  9600形   軸配置 1-D  純両数 775両  昭和47年8月時点 202両                  
      大正3年   8620形   軸配置 1-C  純両数 687両  昭和47年8月時点  33両                  
      大正8年  C51     軸配置 2-C-1 純両数 289両  昭和47年8月時点   0両                  
      大正12年 C50      軸配置 1-C  純両数 158両  昭和47年8月時点   4両                  
                                                                                            
大正末期から昭和へかけて日本は軍国主義の時代、日中戦争と第二次世界大戦へと突入していく訳です
が、その間、関東大震災、治安維持法の制定、世界恐慌、5.15事件、満州事変などの後、昭和10年の鉄
道路線網が下図です。南満州鉄道が半官半民で創設されたのもこの期間です。           
昭和10年鉄道路線網

(1961年日本国有鉄道広報部発行:「国鉄365日」より)


戦争の話ばかりで困ってしまいますね。この先は戦争ばかりなので悲惨なものです。        
重工業の発達は農村部の人々を都会に集中させ、また工業製品や原材料も増加させました。旅客量・貨
物量共に大幅に増加し、大型機関車の登場です。当然軍事物資の輸送増も大きな要因です。都市部では
電車も活躍を開始します。電気機関車の国産化も軌道にのっていきます。             
この昭和の20年間に鉄道では優秀な機関車が続々と登場しています。満鉄のあじあ号は除くとして、下
に昭和の主要な名蒸気機関車を掲げます。(これも釈迦に説法です)               
                                              
     昭和3年  C53  軸配置 2-C-1    純両数 289両   昭和47年8月時点    0両                 
     昭和3年  D50  軸配置 1-D-1    純両数 380両   昭和47年8月時点    1両                 
     昭和3年  C10  軸配置 1-C-2    純両数  23両   昭和47年8月時点    0両                 
     昭和7年  C54  軸配置 2-C-1    純両数  17両   昭和47年8月時点    0両                 
     昭和7年  C11  軸配置 1-C-2    純両数 381両   昭和47年8月時点  106両                 
     昭和7年  C11  軸配置 1-C-1    純両数 293両   昭和47年8月時点   28両                 
     昭和10年 C55  軸配置 2-C-1    純両数  62両   昭和47年8月時点    7両                 
     昭和10年 C56  軸配置 1-C      純両数 164両   昭和47年8月時点   24両                 
     昭和11年 D51  軸配置 1-D-1    純両数 1,116両  昭和47年8月時点  458両                 
     昭和12年 C57  軸配置 2-C-1    純両数 201両    昭和47年8月時点   68両                 
     昭和13年 C58  軸配置 1-C-1    純両数 427両    昭和47年8月時点   93両                 
     昭和16年 C59  軸配置 2-C-1    純両数 173両    昭和47年8月時点    1両                 
     昭和18年 D52  軸配置 1-D-1    純両数 285両    昭和47年8月時点   10両                 
                                                                                            
戦時の需要としてD形機関車が大量に粗製濫造されました。戦後は順次改装されています。          
昭和47年8月時点でD51,9600,C11が3桁の両数を保持していたのは驚異ですね。           
戦後の昭和20年の路線網も2万kmに近づきました。(下図)                     
昭和20年鉄道路線網

(1961年日本国有鉄道広報部発行:「国鉄365日」より)


さて、戦後の鉄道はGHQの管理下に入りました。敗戦国日本ではGHQにより大幅な民主化が行われました。
言わば欧米流の資本主義化の基礎固めでありましょう。一方では旧ソ連を中心に共産主義が大きく飛躍し
ていました。日本の民主化はむしろ欧米の意図する所ではない方向へと動き出していたのです。特に鉄道
関係の労働運動は強力なものでした。                              
このような時期、10万人規模の人員整理を伴って、日本国有鉄道が発足したのです。昭和24年6月1日でし
た。7月に人員整理が発表せれた後、8月までに鉄道3大事件が起こります。下山・三鷹・松川事件です。 
現在も尚、この手のミステリー解明書籍が出版されているのはご存知の通りです。戦後史関係は学校では端折 
ってしまいますのでご興味のある方は多くの書籍が刊行されていますのでご一読下さい。       
ところで、戦後旅客用の機関車が大いに不足していました。また亜幹線用の貨物機も足りません。電化・
気動車化はまだまだ一部分だけです。戦後の蒸気機関車はこうして生まれました。新規設計ではなく、既
存機関車の継ぎはぎとしてです。ボイラーは貨物用(強力です)、走行部は旅客用(早いです)という具合に。 
また、線路規格の低い路線用には軸重を軽減するために車軸を1つ増やした従台車で対応しています。下 
記が戦後の機関車達です。                                   
                                                                                              
   昭和22年 C61  軸配置 2-C-2    純両数 33両    昭和47年8月時点    6両                   
      昭和22年 B20  軸配置 B        純両数 15両    昭和47年8月時点    1両                   
      昭和23年 C62  軸配置 2-C-2    純両数 49両    昭和47年8月時点    2両                   
      昭和23年 E10  軸配置 1-E-2    純両数  5両    昭和47年8月時点    0両                   
      昭和25年 D62  軸配置 1-D-2    純両数 20両    昭和47年8月時点    0両                   
      昭和26年 D60  軸配置 1-D-2    純両数 71両    昭和47年8月時点   13両                   
      昭和28年 C60  軸配置 2-C-2    純両数 47両    昭和47年8月時点    0両                   
      昭和34年 D61  軸配置 1-D-2    純両数  6両    昭和47年8月時点    3両                   
                                                                                              
B20,E10を除けば、全て戦中製造機の改造車です。改造といえば電車も客車も電気機関車もいろいろと手 
が加えられました。同時に動力近代化へと進んで行きます。新製の車両群が電化・気動車化を基準として
大幅に増備されて昭和40年代には主流へと突き進んで行ったのです。                                
下図は昭和36年の鉄道路線網ですが、多少の増減はあっても、おおよそこれが70年代の路線図とみても、
大きな間違いではありません。                                 
昭和36年鉄道路線網

(1961年日本国有鉄道広報部発行:「数字でみた国鉄」より:営業距離数は20,481.9km)


(参考図書:日本国有鉄道百年史、日本国有鉄道百年写真史、数字でみた国鉄1972年、他)

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